208517 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

あいすまん

あいすまん

文芸部1999~2001②

⑫休刊と創刊の狭間で。(2000年7月~8月)

 2000年度は正式な文芸部初年度にして、2度も廃部の危機に瀕した波乱の年だった。まず1度目は長い夏期休暇
に入る頃、7月から8月にかけて。2度目は後で述べる学祭の頃である。7月、同好会として創立した時から活動の基盤
だった『Amp!』が休刊となり、翌月、新たに月刊のフリーペーパー「偽パンダつうしん」が創刊する。しかし、事実上『Amp!』
の作成はこの頃まだ活動の中心となっていた。つまり幻となった6号は実はある程度作っていたのだが、部室を獲得し
たにもかかわらず、わたしを含め部員がなかなか集まらないという事態になっていた。ムードメーカーだったキュウリユキ
コの一時的な退部のせいもあるが、先述の方針転換により部内の雰囲気は最悪で、部会の時以外殆どの部員が部室
に訪れなくなっており、従って部室を片付けたりする者もおらず、部室内は散らかり、部会で集まってもなかなか話が進
まないという惨状を呈し、活動は袋小路にはまり込んでいた。慌てて軌道修正しようと躍起になっていたわたしも、一人
で追い詰められ、余裕のない精神状態で部員を傷つけてしまったりするうちに、勝手な話だが自分の部が嫌になり、遠
ざかりつつあった。部内でコミュニケーションが成り立たず、わたしのいない場所で仲のいい部員同士のみで部のあり方
に対し議論が沸騰し、結論だけがわたしに伝わったりもして、どこでどう道を誤ったのか、どこへ向かえばいいのかさっ
ぱりわからなくなり、何もかも途中で中途半端なまま、空中分解すればいいとさえ思った。

 しかし最低な状態まで悪くなれば後は改善されるしかない。スムーズにはいかなかったが、今思えば功を奏したのは、
わたしが打開策として、どん詰まりの現状に風穴を開けて欲しいと半ば祈るような気持ちで復帰させたキュウリユキコと
新たな部員の効果ではないだろうか。キュウリユキコは新入部員としてロモを連れてきた。さらに、わたしは朴助(ほおす
け)にも入部してもらった。朴助は高校の頃からの友人で、長らく続けていた剣道部で培った精神だろうか、皆で進めて
いく「部活動」というものに対し非常に協力的で、まとめる側としてもとても助かる存在だった。ロモはイラストを得意とし、
発表の場を求めてわたしにEメールでコンタクトを試みたところ、以前から知り合いであったというキュウリユキコの仲介
で入部へ至った。作品のクオリティは部内での評判もよく、これまでにないタイプの創造的な風を送り込んだ。キュウリユ
キコはその二人と既存の部員との橋渡し役となり、部内の雰囲気作りにも大きく貢献した。3人とも、部が再び軌道に乗
るまでの間、わたしと伊波とケモリンを併せた六人で中心となり、年が明けるまで新たな活動の基盤を作るべくよく苦労
してくれた。

⑬初の交流会(2000年8月)

 HPを立ち上げて以来初の夏休み、ネット上で交流のあった日大商学部文芸研究会のソージュさんから、部員数名を
引き連れて、沖縄に移住しているOB島田さんを訪ねるので、ついでに交流会を開こう、という旨の連絡が入った。早速
あちらの部員のYWSさんと電話番号を交換し、県庁向かいの「パレットくもじ」で落ち合って、国際通り沿いの居酒屋で
交流会。沖縄料理を食べさせたいとチョイスした場所だったが、わたしの山之口貘賞受賞式の二次会と同じ場所であり
嫌な想い出もあって、ふと壁を見るとゴキブリがカサカサと歩いていたりして、沖縄のイメージダウンかな、と後悔したりも
したが、むこうは現役とOB併せて5人、こちらはケモリンとわたしの2人で盛り上がった。共通話題が乏しいにもかかわ
らず暴走気味に音楽の話題で引っ張るケモリンにも助けられ、和やかな雰囲気でビール、泡盛やゴーヤーチャンプル
ー、ナーベーラー(糸瓜)からゲテモノに近いメニューまでもりもりと飲み食いして話も弾んだ。
 翌日も遊んでくれるというので、わたしは趣向を変え、多少値は張るがキレイな南国風レストランへ案内した。激辛のカ
レーなどもある多国籍メニューを楽しんでもらいつつ、前日贈呈した『Amp!』についての厳しくも的を射た意見を拝聴でき
た。雑多なかんじは見受けられるが、雑誌として何を目指しているのか、カラーが見えない、というふうな評をいただいた
のを憶えている。雑ならとことん雑でいい、という意見にも納得させられた。日商文芸の皆さんは真剣に読み込んで評し
てくれた。部のあり方や雑誌の作り方など、文芸について様々な情報や主義主張のぶつかり合う深い話しあいに暫くご
無沙汰だったわたしは、多少戸惑い、うまく返せなかったりしながらも、こういう人たちが集える環境を大学でうまく築けな
かったことに疑問が湧いたりもした。雑多で幅広く、という方向性を選択したのはわたし自身だが、こういう専門的な深い
ところでせめぎ合う活動への憧れもあって、それが焦りを生み出し、前述の方針転換を早めさせたのかもしれない。しか
しこの交流会自体は、ほぼ初めて『Amp!』の核へ触れる説得力のある批判が聞け、とても衝撃的で有意義なものだっ
た。

⑭ギリギリで臨んだ大学祭(2000年11月)

 時間的にも、精神状態も、もはや限界に近い状態で、意地で成功させたようなものだった。
 大学祭展示発表の「プラパンダネタリウム」は、直径2メートル強の半球状の「偽パンダ」の頭部を作り、その中にモニ
ターを入れ、キュウリユキコとロモが撮影した映像を映し出すというもの。パンダは内壁を綿で埋め、外側はフェルト生地
をつなぎ合わせて肌触りを良くし、耳は黒く染めた毛糸を貼り付け、目には懐中電灯を内蔵して光るようにし、パンダの
周りにも日本各地の伝統芸能を思わせるこけしや人形、様々なオブジェを散りばめ、展示会場であるゼミ室の壁は赤い
画用紙で埋め尽くし、天井の蛍光灯も赤いセロハンで覆い、香を焚き、CDラジカセ大音量で昔懐かしの童謡を流した。
 隣のスペースでは文芸部の沿革とこれまで発行した部誌、他大学の部誌の紹介や、学祭前日に完成した『沖国大文
学』創刊号の販売、小さな古本屋をやった。

 しかし、そこまで辿り着いたのは奇跡と思われるほど、作業は遅々として進まず、学祭3日前で3割程度の出来だった
のだが、それはほぼ3人で全作業をまかなっていたのだから当然だった。伊波と朴助は国文学科1年次学祭恒例の民
話劇「鬼慶良間」で演出と準主役級という重役を務めており、ケモリンは兼部しているニューミュージッククラブの作業で
手があかず、結果としてわたしとキュウリユキコ、ロモの3人でひと月の間、無理をした。企画立案から細部を詰めてい
き、買い出し、組み立てなど、睡眠時間はおそらく平均3、4時間、直前の3日間は徹夜であった。学祭2週間前からサ
ークル棟の24時間使用が許可され、1週間前からは展示会場となる教室棟も深夜解放されたので、その時間をフルに
活用したが、完成は学祭開始1時間後の11月27日午前10時だった。キュウリユキコは最も長く作業に携わり、具体的
な作業手順の考案から実作業、撮影、買い出しと、疲労困憊ながら幅広く最後までリードした。ロモも企画立案、機材、
撮影、会場設営など深夜まで働いた。わたしは2人を手伝った。3人以外にも伊波とは多忙の合間にわたしが作った『沖
国大文学』の原稿について話し合った。朴助は「鬼慶良間」の練習後に訪れ、疲労をおして力仕事を手伝ってくれた。ケ
モリンはこの企画に「偽パンダ」と「プラネタリウム」を組み合わせて命名し、ネーミングセンスを生かした。11月の前半
は、作業の進行状況が悪く終わりが見えず、人も来ない、部活動とはなんだろう、とか考えつつ、疲労が蓄積し、志乃と
音々、陽の退部も重なって、わたしはまたも部を潰すことばかり考え始めていたが、先の2人が頑張っており、学祭が近
くなるとゼミやバイトなどをおして寿司が絵を描きに来てくれたり、松隆やマッコイ、梅も手伝いに来てくれて、何とか「プ
ラパンダネタリウム」が完成した。『沖国大文学』も、4日前にサークル棟の印刷機の不調に苛立ちながら徹夜で印刷し、
松隆の車で印刷所まで運んでもらい製本させて、完成。時間的にも精神的にも、ギリギリながら燃え尽きることのできた
学祭だった。

⑮『沖国大文学』への反響(2000年12月~2001年1月)
 学祭のどさくさの中創刊した『沖国大文学』創刊号へは、様々な反響があった。発刊後、交流のある他大学文芸部や
沖国大文芸部と繋がりのある方々に郵送し、新聞社に持ち込んで回ったりしたところ、まず沖縄タイムス12月22日付
朝刊(教育欄)に「大学生の文芸復興へ」と題して写真入りで掲載され、続いて琉球新報25日付朝刊(教育欄)で紹介さ
れた。そして沖縄タイムス28日付朝刊(文化欄)の「詩時評12月」において「沖縄の文芸潮流に新たな予兆」と
題し、詩人川満信一さんが大きく紙幅を割いて祝してくださった。時評では、かつて県内文壇で一斉を風靡した琉球大学
『琉大文学』や沖縄大学文学研究会の『発想』などの隆盛と衰退の過程を振り返ったあと、その末尾は「情報に乗せら
れ」ると「文学は扼殺され」るとしたうえで、「情報に鈍感にならず、しかも内なる真実の声によって情報を浄化する、それ
が時代を超越する文学の、詩の宿命的精神運動であろう。」と締めくくられている。さらに1月には、日本現代詩人会会
員宮城松隆氏主宰の『キジムナー通信』第9号に、「『沖国大文学』の創刊を祝す」と題して宮城氏の4頁3000字あまり
に及ぶ評論が掲載された。論では、まず伊波泰志の詩群について、「パーティー」を起点に『存在と苦悩』からショーペン
ハウアーの言葉を引いたうえで、「客観を無にし、そして主観をも消滅させる」と読んで、「光速の彼方に」で「人と人との
関係性まで無化」し、「ドローゲーム」で「世界の終焉を告げる地点にまで虚無化されて」いくとする「無の志向性」を見出
だしている。その他、宮城隆尋「糸」に「関係性の修復」が破綻した末の「自己分裂」を見、砂川智恵美の「理由のない理
由」を「彼岸と此岸との対話」として「現代のサラリーマン社会」の「揶揄」を、寿司「バスの運転手」に「異常の側に視座を
据えると日常が異常」となる「反転」を見るなど、全ての作品に触れて祝してくださった。そして1月26日、『沖国大文学』
創刊号を総括しての合評会を顧問の大野隆之先生を部室に招いて行った。先生をゲストとしてそれぞれの作品につい
て感想を述べていただき、部員と話を広げていく、という形式を取った。大野先生からは、ページが打たれていない、奥
付に連絡先の表記がないなど編集の甘さと、詩(モノローグ)の多さによる他者性の喪失、中心となっている伊波と特に
宮城に覆い被さる80年代以降の問題としての、痛覚や身体表現にリアリティを求める傾向から脱しきれていない、など
の指摘があった。1月は発行後2ヶ月、返礼の帰ってくる時期で、北九州の詩人中原澄子さんは伊波の「白か黒か」に
「人間の存在のあやうさ」を見つつ「言葉が多すぎる」として「別れ」の蛇足を指摘し、ケモリンに「批評家の詩のおもしろ
み」を見るなど丁寧に各作品に触れてくださり、静岡の詩人溝口章さんは宮城隆尋「ぶくぶく」「冷凍保存」にダダ詩に通
じる、それでいて囲い込まれた新しさを見出してくださった。読んでいただけた方々の様々な感想を零すことなく受け止め
て、『沖国大文学』第2号に繋げるべく個々の内部に消化し作品へと昇華せねばならないと痛感した。「偽パンダつうし
ん」五号に「『大学文芸の復興』もそれら情況を鑑みた上で、そして客観的意見を自己の内に消化しての個々の作業の
充実無くしては成り立たないことでしょう。」(宮城隆尋)と記した。学祭が終わり、中心メンバーの精神的にも穴があいた
時期、部の運営は混乱の中にあり、「偽パンダつうしん」の発行も滞った。しかし、学祭で中心になった3人を軸に、これ
以降は伊波、ケモリン、朴助に砂川千恵美を加えた7人で、ネット上で提案された「全国文芸部総会」へ向けての話し合
いを足がかりにして、部の機能は回復されていくことになる。溜まっていた原稿も2月に「偽パンダつうしん」3、4、5号同
時発行という形ではき出される。

⑯総会。東京へ。(2001年2月)

 東京へ行くには金がかかる。避けて通れないシリアスな問題。部費は部室整備や備品購入、冊子発行で(わたしの無
計画さが大きいが)既に使い果たしており、完全に自腹しかない状況。こんな中、集まった7人全員が資金を作り、東京
行きに賛同してくれたのはとても嬉しかった。わたしのためなどではないのはわかっているが、仲間が行動をともにしてく
れるというのは嬉しいものだ。当初は伊波とわたしとキュウリユキコの3人しか行けないと思っていたのが、ロモも朴助も
砂川千恵美も行けることになり、いちばん問題視されていたケモリンも何とか資金を作ることができ、揃って行けると決
まったのは二週間前。わたしはチケットを手配し、皆から預かった18万円という大金を胃が痛くなりながら抱え、旅行代
理店へ引き換えに行って、6人分のチケットを手にした。伊波は単独行動で友人の家に泊るということだった。
 出発前に7人の団結を深めようなどと堅苦しく考えたのはわたしだけかもしれないが、飲み会を企画した。7人でまず
国際通りの新装開店したレストラン(定食屋?)に入り、仲良く並んで夕食。わたしは多分「沖縄そば」を食ったのであり、
あまり憶えていないが、最近「木灰そば」と呼ばれることも多くてわかりにくいので統一せよ、と思いつつ食べたような気
もする。伊波は時間の問題もありここで帰宅したが、六人で居酒屋へ行き、まったりと飲んで、帰りに皆でアイスを食べ
たりしながら、東京でどこへ行こうか、などと話し合った。

 2月23日、東京恵比寿の新橋区民会館。初の大学文芸部及び文芸関係団体の総会。東京をはじめ金沢や名古屋、
神戸など様々な地方の方々と交流を持つことができた。総会自体の流れとしては、まず公民館の大ホール、「ご自由に
お取り下さい」と記された机上に陳列される各団体の冊子とともに、用意された大量のお菓子やジュースを「まずは食べ
てください」という主催者白風遼悟さん(青山学院大OB)のアナウンスにより和やかな雰囲気で運営役員が自己紹介。
副代表の東大ペンクラブ大島さん、駒澤大「文芸四季」の哉飯(かなめし)さん、金沢学院大「創樹会」のMVCH―290
19さん、わたし、の順で自己紹介を行い、次に参加団体が愛知教育大「胡蝶」の睦月あやみさんを筆頭に五十音順で
自己紹介。26団体、総勢70名以上にのぼる参加者の紹介が終わる頃には二時間近くが過ぎ、白風さんの感謝をこめ
た涙の挨拶のあと、数十分の歓談。それぞれがやっと打ち解けたあたりで、場所を恵比寿ガーデンプレイス39階の居
酒屋へ移し二次会。この辺りから、どうでもいい雑談に雑じって最近読んだ本の話や各サークルの現状について、ホー
ムページの話、新入部員獲得の話など、文芸的な話題がちらほら。そして渋谷に移っての三次会では、参加者も半分
以下になったが、今後の総会運営に関しての話や文芸団体はどうあるべきか、どうまとまっていけばよいだろうかという
話も白風さんを中心に交わされた。最後は深夜の渋谷センター街で、慶應ペンクラブのはんぷtだんぷtさんの音頭によ
り、総会を個人で企画、主催した白風さんへ「おつかれさま」の意をこめ一本締めで幕。
 翌月発行の「偽パンダつうしん」6号には「参加者それぞれが部誌とともに持ち帰ったものが大きなものであったこと
は、今後の学生文芸団体がネット上で集う場所としてポータルサイトが、龍谷大の沙涼水奈さん管理のもと、オープンし
たことが物語っています。以前東大ペンクラブ大島さんを中心に築かれた「文芸部の広場」が、あまりにも時代を先取り
しすぎて軌道に乗らなかったという経緯も踏まえ、総会を足がかりに大島さんの残したウェブリングやメールマガジン、メ
ーリングリストなどをフル活用し、新たな学生文芸の潮流が産み出されようとしています。」(宮城隆尋)と記した。
 2001年度も総会が催されるのか、今のところ流動的だ。しかし夏休み後から総会直前までに沸騰した部誌郵送ラッ
シュも、各団体の交流の輪を広め、大学文芸という共通の場を持つ人々が大いに盛り上がることができた意義深いもの
だったと思うので、今年も開催を期待している。沖国文芸部も、それまでにリンクを貼っていた神戸女子大や茨城大、創
樹会、桃山学院大、福岡教育大、名古屋市立大に加え、駒澤大学「文芸四季」や青山学院大学二部文芸部、東大ペン
クラブ、慶應ペンクラブ、明治学院大学文芸部、東京農業大学文芸部などから部誌をいただくことができた。なにより部
の中心メンバー7人で2泊3日行動をともにしたということ自体エキサイティングな事態だった。個人的にも楽しかった。
かなり疲労したが、HPにも旅行記的な「オフレポ」をアップした。

⑰それから…

 東京行きの第三期メンバーが固まってからは、活動は順調極まりない。部長を伊波泰志に引き継いでもらい、役員も
引継ぎ、今は多くの新入部員とともに第四期というべきメンバーで『沖国大文学』の年2回発行や、作品の質的向上はも
ちろん、合宿や飲み会などを通して親睦を図りつつ、より高い地平を目指している。この原稿を書くに伴い、わたしは記
憶を手繰り寄せ、多くの後悔を芋蔓式に引き摺り出してしまったが、その合間に確実に実のなる芽があることにも気付
いた。出来事のみを思い浮かべる時、後悔はついてまわるが、部員として、その他部を動かしていく道中わたしと関わ
り、支えてくれた多くの人たち、それぞれの顔を思い浮かべるたび、ニヤけてしまうほど楽しい想い出と感謝の念が溢れ
てくる。と書くと言い過ぎのような気もしてくるが、引き継いだ今となっては部の現状には満足しており、これまでの誰が
抜けても今の形にはならなかったろうと考えると、感謝感激なのである。新部長として部活動の基本である役割の分業
を進めている伊波には、仕事を残しすぎてすまないと思うが、とても頑張ってくれている。新入部員も強烈な個性をもっ
た、面白いものを見せてくれそうな人が多く入った。部活では人間関係の楽しさも辛さも学ぶことができた。部員の皆さん
には、文芸を自分と部員と読者の三者で楽しむということを忘れないで、部室で楽しんで卒業していってほしい。
 この駄文を最後まで読んでくださった方にも、感謝。



『沖国大文学』第二号(2001.9.20発行)の原稿より。加筆修正アリ。2001.9.21



© Rakuten Group, Inc.